〔書籍紹介〕足もとの自然から始めよう/デイヴィド・ソベル

レイチェル・カーソンの「センス・オブ・ワンダー」が、環境教育に関心のある者にとって必読の書であるならば、その次のステップとしてさらに注目されてもいいと思っている書籍があります。
足もとの自然からはじめよう
「足もとの自然から始めよう」子どもを自然嫌いにしたくない親と教師のために
デイヴィト・ソベル著/岸由二訳

訳者解説を入れても全部で111ページほどの読みやすく簡単な本でありながら、明快な問題提起と、それに対するより良い提案がなされている一読推奨の本です。

本書の問題提起がどのようなものか、少し内容を引用します。

環境教育に対する熱意、それ自体は確かに妥当な、賞賛すべきものだろう。人類が希少な資源に群がっているという問題に子どもたちが気付けば、子ども達は熱帯雨林保護への寄付つきの「熱帯雨林クッキー」を買ったり、将来、選挙で環境問題重視の立候補者に投票したり、(中略)地球を救う助けをするようになるだろう。しかし、私が危惧しているのは、それとは正反対のことが起きているのではないか、ということだ。皮肉なことに、子どもたちに地球環境問題について関心と責任感をもたせようとする我々大人たちの熱意は、子どもたちをこの大地から引きはがしてしまっているのではないか。(p.6)

これは環境問題に限った話ではありません。社会問題にも政治についても言えることですが、私たち、あるいは子どもたちの世代はその「知識」だけをみれば、以前の世代とは比べ物にならないほど様々なことを知るようになりました。あるいはいま現在知らなくても、インターネットの発達に伴い、知ろうと思いさえすれば、すぐに必要な情報にアクセスできる環境を得ています。

いまの社会の仕組みは何かがおかしいのではないか、そう皆がうすうす気が付いている時代でありながら、それに対して正面から向き合おうとする者は稀である。というのが現代です。

それに対して、ソベルはこう明快に分析します。

もし教室が地球環境破壊の話題で埋め尽くされていたら、子どもたちはそうした問題から距離をとろうとすることだろう。肉体的・性的な幼児虐待に対する反応と同様で、苦痛から逃れるため、そこから距離をとる技術や手段を見に付けてしまうのだ。(中略)自然界が虐待される様を目の当たりにさせられて、子どもたちはかかわりをもちたくないと思うようになっている。(p.8-9)

はじめてこの本を読んだとき、自分自身が抱えていた問題をはっきりと理解することができました。バブルがはじける頃に幼少期を過ごした世代の私は、物心ついた時から暗いニュースに囲まれていて、学校で環境問題に対する啓発ポスターを書いたりする様な教育を受けてきました。生まれた時にはすでに山積みとなっていた様々な問題を、自分たちの世代の問題として解決しなければならない責務を負わされていることを知り、なんとも複雑は気持ちになったことを覚えています。(もちろん当時はあくまで感覚的にですが)

暗いテーマに触れさせ続けられた結果、意識的にも無意識的にもソベルが言うところの「苦痛」から目を背けるように育っていくは自明なことであるように思います。

ただし、ここまでの話は、いち社会批判として、そこまで珍しいものではありません。ここからソベルは『しかるべき成長過程を尊重する』ことの大事さを説いていくのですが、ここからが本書の肝の部分となります。その概念に続いて具体的な手法の話に移っていくので、その詳細は是非本書を手に取っていただきたく思います。ここでは導入としてその概念だけ下記に要約をしてご紹介します。

・子どもたちは、その成長過程において、自分と周辺(自然)環境の捉え方を3つのパターンで変えていく。
・4歳~7歳までは、家と庭がその地図の中心であり、手で触れ耳で聞こえる範囲のものを非常に大事にする。
・8歳~11歳にかけては、家の外へと探検できるところまでその世界の地図が拡がるが、まだ具体的に表現できる範囲内におさまっている。
・12歳~15歳になると、その地図はますます範囲を広げ、次第に抽象的なものになっていく。

冒頭の問題提起だけを読むと、少々早合点してしまうところがありますが、ソベルは環境問題について知識を教え込むのを止めよと主張しているわけではありません。あくまでその成長過程に合わせた伝え方をしていくべきだと説いています。

社会活動についての私のポリシーは、「4年生まで悲劇はなし」。ここで私が言う悲劇とは、幼い子どもたちの地理的、概念的な視野を超えた、大きくて複雑な問題である。熱帯雨林の破壊などはまさしく環境悲劇に当たる。(p.62)

ソベルは、自身の7歳の娘にカリフォルニアの山火事で焼け落ちた家々の写真を見せた時のことをこう書いています。

(その写真は)そこから遠く離れたニューハンプシャーに住む7歳の私の娘の心をかき乱した。なぜなら彼女はすぐに自分の身に迫ることとして受け取ってしまったからだ。「火は近いの?私たちの家も燃えちゃうの?森の火事が起きたらどうしよう?」。娘がこんなことを質問するのは、まだ時間と場所の感覚が固まっていない彼女にとって、心のなかでカリフォルニアはすぐに隣にあるからだ。(p.24)

同じ内容の知識でも、子どもが固有に持っている地図の大きさや作り方によって、その伝わり方が大きく変わってしまうということをソベルは書いています。

地球規模の話は、その地図が抽象的な範囲にまで及ぶようになった時から伝えるべきで、そこまでの間にはもっと重視すべきことがある。それが本書のタイトルであり、ソベルの提案である『足元の自然からはじめよう』です。

ここからは、レイチェル・カーソンのセンス・オブ・ワンダーと同じ話になります。都会的な環境であれ半自然環境、あるいは手つかずのウィルダネスでも同様に、まずは大地とつながる体験を得ること。そこが出発点。

より具体的な自然との交歓体験を自身のなかで築いていることは、大人になり様々な問題と向き合った際に、そこから目を背けずにいられるだけの基盤となりえます。また、足元の自然を楽しむ術を持つ者は、私たちにとって一体何が大事なことなのかに何度も立ち返ることが出来るようになります。なぜなら、たとえ都会にいても、ほんの少しだけ視線を下に向ければぞこに生きる小さな草花からメッセージをもらうことができるからです。

環境問題に限らず、日本における社会活動がある一定の所までは盛り上がるのに、そこからもう一歩進むことが出来ない原因は、まさにここにあるのではないかと私は思っています。

自分自身、ソベルの『4年生まで悲劇はなし』という言葉には、何度でも立ち返っていたいなと思うと同時に、この考え方が日本でももっと広まってほしいなと願っています。

環境や社会問題に関心のある方だけでなく、子どもを持つ親世代や、子どもと触れ合うことのある全ての大人の方に読んでもらいたい書籍です。未読のかた、是非ともご一読ください。


最後に、蛇足ではありますが、私の「まちの植物はともだち」という取り組みは、この書籍に多大な影響を受けています。この活動のことをたまに「これは自分なりの平和活動です」と紹介することがありますが、それはそっくりそのままソベルが言うことを体現しようと思っているからに他なりません。

デイヴィド・ソベルはアメリカにおける環境教育実践の中心的人物ですが、和訳されているものは、わずかこの一冊のみ。

もっと注目を浴び、ほかの書籍も日本人が読むことが出来るようになることを望んでいます。


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1 コメント

  1. watashinoniwa

    早速、2種類の本を注文しました。隠れ「読書家」ってのいいですね。私もあやかって、明日から早起きして、定時間帯で読む習慣をつけようかな・・・。読みたいと買う。→本が増える→どれから読んでいいか分からなくなる→雑事に紛れる→本の山。読みたい時に一気に読まないと興味が移るから読めなくなる。届いたらすぐに読み始めようと思います。

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